2003年7月5日(土)
闇をじっくりと観賞する
滝沢村 相の沢キャンプ場
 土曜日である。世間は休みである。例によって、私は休めなかった。というか、本当は休みなのだが、仕方なく出勤して仕事をしていた。何の仕事だったか。いつもこれだ。

 決して仕事がさばけないのではない。業務量が大きすぎるのだ。不平を言わずに黙々と苦しみに耐えることが美とされる傾向にあるが、そんなものはおかしい。

 私は仕事のために生きているのではない。楽しく暮らすために生きている。そのために必要だから働いているのであって、決して仕事によって他を犠牲とするあり方を認めているのではない。
 のっけから文句を書き連ねた。しかし私にはキャンプがあるもんね。負けないもんね。というわけで、頑張って仕事を片づけ、無理矢理何とかキャンプの時間を確保する。

 それにしても何だろう。元々、きょうは私の休日ではないか。それなのに、何とか確保するとは何事だ。不意に、しかも不必要に控えめになった自分にやや憤りつつも、ハンドルを握る心は軽やかだ。

 車で30分、今回も滝沢村の相の沢キャンプ場へ。もう何度か来ている、いわば私のホームグラウンドだ。何度か来たからといって飽きるものでもない。

 新しいキャンプ場や、知らないところで過ごすのも楽しい。けれど、こうして仕事を終えて出かけるキャンプは、そうした観光的意味合いよりも「ストレス解消」だったり「リハビリ」だったりと、純粋にキャンプするという行為を楽しむための営みなのだ。
 天気は曇りである。週間予報で見ていた頃は雨が降るという予報だったが、当日を迎えると雨の心配はほとんどなさそうな予報へと変わっていた。車から歩いて荷物を運ぶ。キャンプサイトにいたのは、ソロテントが一つ、家族が一組、アベックが一組。まぁまぁの混雑度ではないかと思う。

 まだ明るい。日没してすっかり暗くなるのは19時を過ぎてから。十分に時間もある。前回のひとりキャンプで目を付けていた木陰にテントを張る。ロウソクと、虫除けキャンドル、そしてLEDライトを灯して、ゆったりとした気持ちで暗くなるのを待つ。



 夕食は、昼が遅かったので特に用意しなかった。設営を終えたあとは、テントの中でのんびり横になっていた。日が暮れて、夕方から夜に移っていく時間帯。外に出て、その空気を感じようとテントを這い出した。もう一度車まで歩いて、チェアを運んだ。ゆったり座れるものをテントのそばに置きたかったのだ。
 チェアに深々と腰掛け、空を眺める。西側は森になっていて、その先は山だ。サイトからは東側の空が見える。滝沢村の東側には低い山が連なり、その向こうに私が住んでいる街がある。県庁所在地、盛岡。空は街の明かりを受けてうっすらと明るく光っている。

 その空の光が、日が暮れるに従ってだんだん空に溶けていく。空には、薄い雲が、しかしまんべんなくかかっている。雲間から、一つだけ星も見える。

 目の前に広々と広がる、とてつもなく大きな闇。星が出ていれば見える景色も大きく違っているだろうが、その闇が、時が過ぎるに連れてだんだんと黒さを増していく様子をじっくりと観賞した。
 バッグからスキットルを出し、中の焼酎を水で割って少しずつ飲む。決して酔っぱらうわけではない、わずかな量。しかし、心を覆っていた薄くて硬い殻を砕いて取り去ってしまうには十分な量だ。

 私の心。新陳代謝で皮膚の上に垢がたまるように、あんな働き方をしていると心にも垢がたまる。その垢は表面で硬くなり、殻となって心を覆う。覆われた心はしなやかさを失い、輝きも消える。

 足元で揺れる、ロウソクの炎。頼りないように見えながら、それでも確かに辺りを照らす。足元の光と、頭上の闇。その対比を楽しみながら、私は静かに焼酎の滴を心に点々と落としていった。

 みるみる心の殻が取れて、輝きが戻ってくるのが見えるようだ。私は確かに生き返っている。
 焼酎がなくなったところで、トイレを済ませてテントに潜り込む。今回も、何も読む気になれなかった。それでいいやと割り切って、目を閉じた。



 LEDライトはつけたまま。今回は鳥の声があまり聞こえてこない。なぜだろうと思っているうちに、意識が遠のいていく。私は静かに眠りに落ちた。

 夜中、目が覚めた。雨が降っている。テントのフライを叩く雨音を少し聴いた。「あぁ、雨だな」。意外に心地よい音だ。

 しばしその音に耳を傾けていたが、あまりにしっとりと心に沁み入る音だったので、知らないうちに再び眠りに落ちていた。設営や撤収など、外で何かするときに雨に降られるとげっそりするが、寝ている間の雨なら歓迎だ。
 朝。雨は上がったようだ。まだ時計は見ていないので何時だか分からないが、外に出てトイレへ行く。地面の草は濡れている。「あぁ、そういえば雨が降ったな」その時は、夜中の雨で目を覚ましたことを忘れていた。

 朝の空気を適度に吸い、辺りの景色をしばらくぼんやりと眺め回した後は再びテントに潜り込んで二度寝を楽しむ。

 子供の声で目を覚ます。また子供か。未就学児童と見られるガキが2。オカンと婆ちゃんと一緒に、4人で遊びに来ている。楽しいのだろうな。子供はボールを投げるか蹴るかして遊んでいる。

 婆ちゃんは「そっちには寝ている人がいるから行っちゃだめ」という意味のことを言っている。きっと私のことだろうと思う。これ以上寝ていられない。
 睡眠は十分にとった。面倒くさいので、その4人が帰るのを待つ。幸運にも、ほどなく彼らは帰っていった。

 行動開始。朝食は軽めに済ませる。テントは、すぐそばのファイアーサークルのまわりにあるコンクリートの上に広げ、乾かす。その間に、運べるものを車に運び、抜いたペグを水で洗って乾かす。

 朝から気持ちよく晴れ、撤収もスムースに進んだ。テントもすっかりきれいに乾いた。1時間ほどかけて、のんびりと片づける。慌てて帰ることは私の考えにはない。

 決して自分から急いで現実の世界に戻る必要はないのだ。時折訪れる、この喜びに満ちた非現実の世界。名残を惜しむかのように、私はゆっくりと荷物を積み込んでキャンプ場をあとにした。

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