孤独をかみしめるということ
〜ひとりでキャンプに出かける理由〜


 生きるためにキャンプをする。

 この社会があまりに不条理だと感じることは基本的に少ないし、そんなに物わかりが悪い人間でもないはずだ。社会のあり方も、だいたい理解している。

 しかし、客観的に見たらあまりにかわいそうな日々を送り、窮屈な暮らしをしているはずだ。こんな毎日がずっと続くなら、到底生きていられない。

 人間は自由であるという。

 ならば、その自由を確かめなければならないだろう。そうしないと、自分が自由だったなんて忘れてしまいそうだ。
 疲れたら旅に出る。ひとり、車に道具を積み込んで、街の喧噪から遠ざかるように。静かで、人の気配がない山を目指す。それは、まさに「孤独をかみしめる旅」。



 ひとは言う。

 ひとりでキャンプするなんてどこが面白いの? 賑やかに大勢でキャンプした方がずっと楽しいじゃない?
 しまいには、まるで異端のように言われる。ひどい扱いだ。
 そもそも、私は「群れる」ことが大嫌いだ。他人と同じであることを好む人がやたら多いが、私にはその神経が分からない。

 何か、芸能人でも歌でもいい、何かが流行るとしよう。すると、みんなそれに飛びつく。服装、言葉遣い、そして遊び。あっという間に広まり、そして忘れ去られる。その繰り返しが社会経済を支えているのだろう。でも、そんなものに価値があるのだろうか。

 高校生と思われる制服姿の集団が、同じようにネクタイを緩く結び、シャツをだらしなく出して、同じように脚を開いて座り込んでたむろしているのをよく見かける。
 そういうのを見ると、心底、気の毒な連中だなぁと同情してしまう。そこに創造性はおろか、思慮の形跡すら見あたらない。

 そんな者の中でも、個性がどうのと勘違いじみたことを主張する者がある。すると、愚かな大衆は一斉に違うことをしようとするが、それは実際のところ、何か雑誌やテレビで見たものを真似ているだけだったりする。結果的に、個性とはほど遠い世界ができあがる。

 日本人は、他人と同じことをするのがよほど心地よいらしい。しかし私はその真逆をひた走る。他人と何もかも同じではつまらない。
 仲間と楽しく過ごすキャンプの喜びも知っている。意気込んで作る豪華な食事のおいしさも分かっている。



 しかし、現実にひとりキャンプは崇高で厳かな行為だ。誰もいない場所、満天の星を仰ぎ、小さなテントで過ごす。誰にも邪魔されることのない、密やかで深々とした、私だけの喜び。

 忙しい日々を送っていると、ひとりになる時間がほとんどないことに気づく。見える範囲にいつも誰かがいるし、誰かが発した音(それはテレビやラジオを通 じて届くものも同じ)がいつも聞こえている。パソコンを開けばメールが届いているし、いまや携帯電話の普及のせいでどこにいたって捕まってしまう、大変息 苦しくいまいましい時代だ。

 そんな時代に、たったひとりになって自分と静かに向き合い、いろいろと考え事をする時間があるなんて貴重だとは思わないだろうか。だいたい、表面上にぎ やかでも、人は孤独だったりするという。そんな孤独はこころ貧しい、惨めな孤独だ。そうではなく、実りのある、豊かな時間をひとりすごすという孤独であれ ば価値が違って見えてこないだろうか。

 そんな時間を、私はひとりで過ごしているのである。

 それに、誰に気をつかうわけでもなく、自己の内面に集中できるの もよい。誰かが一緒だと、多かれ少なかれ、普通の人なら必ず気をつかうものだ。どこへ行こうか、いつ食事にしようか、どの酒をどれくらい飲もうか、いつ休 もうか、いつ起きようか、いつ帰ろうか…。ひとりであれば、その全てを判断するのは私である。

 この1泊2日の孤独の旅において、私の主はまぎれもなく私自身なのだ。

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